ある雑誌のジェンダフリーなる記事を読んでびっくりした。
正直言って私はジェンダフリーの事を良く知らなかったが、
この記事を読んでいて、吐き気がするほど嫌悪感に襲われた。
こんな事本当に学校現場であるのか、
この日本で誰が何の目的でこんな事を推進しているのか、
理解に苦しむ。
文化や伝統、歴史にとらわれないで、個人が尊重されなければ
ならないとか、性別で判別するから男も女も「さん」付け
で呼ばなければならない。「君」は男を判別するからだめであるというのである。
そして学校で生徒に「さん」で呼ぶように指導しているのである。
なんという男差別であろうか。「さん」で呼ぼうが「君」で呼ぼうが
これこそ本人の自由ではないか。これこそジェンダーフリーを笠に着た
言葉狩りであり、文化、伝統、言語の破壊である。
だいたい性別で判別してはいけないとか、判別を思わせるような
言葉、教育、制約、社会的制度はいけないと言うが、何がいけないのだ。
性差をなくす、性別をなくす、これは自然界、神に対する冒涜である。
男も女も同質化することに何の意味があるのだろうか。
動物の世界も、鳥類の世界も、魚の世界も
植物の世界も、オスはオス。メスはメスなのである。
そしてそれぞれが、自分達が生きる為の役割と、子孫に対する役割とを
明確に分担しあい、それがそれぞれの社会を形成しているのである。
ジェンダフリーを唱える人達は、人間にカタツムリやミミズのように
雄雌同体にでもなれと言うのであろうか。何の為に。
女性を解放するために。何から開放なのか。
日本の文化歴史的社会制度からですか。
我々は、広い意味での文化や歴史があって今の自分が存在するのです。
先祖がいて、祖父母がいて、両親がいてそして自分がいいるのです。
自分の存在はこのような、先祖や両親、そして豊かな日本の文化や歴史、
地域社会に育まれて存在するのです。
文化や歴史を否定する事は自分自身を否定する事にもなるのです。
「さん」「君」も立派な日本語です。「さん」や「君」にも
深い深い言葉の意味があるんです。
【#262】 ジェンダフリー
- 2002年7月10日
- 今日の一言
- 2View