【#262】 ジェンダフリー

ある雑誌のジェンダフリーなる記事を読んでびっくりした。
正直言って私はジェンダフリーの事を良く知らなかったが、
この記事を読んでいて、吐き気がするほど嫌悪感に襲われた。
こんな事本当に学校現場であるのか、
この日本で誰が何の目的でこんな事を推進しているのか、
理解に苦しむ。
文化や伝統、歴史にとらわれないで、個人が尊重されなければ
ならないとか、性別で判別するから男も女も「さん」付け
で呼ばなければならない。「君」は男を判別するからだめであるというのである。
そして学校で生徒に「さん」で呼ぶように指導しているのである。
なんという男差別であろうか。「さん」で呼ぼうが「君」で呼ぼうが
これこそ本人の自由ではないか。これこそジェンダーフリーを笠に着た
言葉狩りであり、文化、伝統、言語の破壊である。
だいたい性別で判別してはいけないとか、判別を思わせるような
言葉、教育、制約、社会的制度はいけないと言うが、何がいけないのだ。
性差をなくす、性別をなくす、これは自然界、神に対する冒涜である。
男も女も同質化することに何の意味があるのだろうか。
動物の世界も、鳥類の世界も、魚の世界も
植物の世界も、オスはオス。メスはメスなのである。
そしてそれぞれが、自分達が生きる為の役割と、子孫に対する役割とを
明確に分担しあい、それがそれぞれの社会を形成しているのである。
ジェンダフリーを唱える人達は、人間にカタツムリやミミズのように
雄雌同体にでもなれと言うのであろうか。何の為に。
女性を解放するために。何から開放なのか。
日本の文化歴史的社会制度からですか。
我々は、広い意味での文化や歴史があって今の自分が存在するのです。
先祖がいて、祖父母がいて、両親がいてそして自分がいいるのです。
自分の存在はこのような、先祖や両親、そして豊かな日本の文化や歴史、
地域社会に育まれて存在するのです。
文化や歴史を否定する事は自分自身を否定する事にもなるのです。
「さん」「君」も立派な日本語です。「さん」や「君」にも
深い深い言葉の意味があるんです。