【#1290】 広島の公教育再生運動の軌跡

「教育は国家100年の計にあり」

平成10年、私は有志とともに広島県教育会議を立ち上げ、理事長とし
て日教組や部落開放同盟に支配されていた公教育の正常化のための運動
を起こしたのでした。丁度全国的に「ゆとり教育の弊害」が騒がれ、学
級崩壊、学校崩壊、校内暴力、教職員組合の勤務中の組合活動などが社
会問題化してきた時期だったと思います。広島県はその中でも時に公教
育が荒廃し非行、学力低下が際立っていました。

平成10年に広島県は文部省の異例の是正指導を受ける事となった。そ
れまで広島県の公教育の現場は全国的に有名になった日教組、解放同盟
の教育現場への介入などで、学校が混乱していました。学校長は教職員
組合との協定でなんらの権限もなく組合の言いなりとなり、教職員の規
律の乱れ、生徒がなおざりの学校は学級崩壊、学校崩壊となり、ついに
は広島県の学力は全国最下位グループ入りとなったのでした。この状況
でも教育委員会や保護者ですら学校に意見すら言うことができないほ
ど、広島の公教育は荒廃に荒廃を重ねていたのでした。そんな中、平成
11年2月27日、県立世羅高校の石川校長が卒業式を前夜、卒業式で
の国旗掲揚と国歌斉唱をめぐる教職員組合の反対圧力で自殺に追い込ま
れたのでした。それまでに広島県では教育現場で日教組や解放同盟の嫌
がらせや圧力で数人の校長や教員が自殺した事は県民の知るところで
す。日教組や部落開放同盟の公教育現場への介入の1番の目的は「人
権」「自由」「平等」と「民主」を唱え、「反日教育」「反国家」「国
旗国歌の否定」「天皇制否定の教育」を子供たちに徹底的に刷り込むこ
とであったのです。戦後、日教組はこの運動を柱として教育現場で公然
と、そしては時にはゲリラ的に破壊活動を行ってきたのである。

あれから約10年、広島の悪しき協定と言われた、八者合意(県教育委
員会が日教組や部落開放同盟等反体制団体七者と教育現場の介入を認め
た)の破棄、元教育長の菅川文書(日の丸、君が代の差別発言)の無効
などが行われた。平成11年8月13日国旗国歌法が制定された。今で
は県内の公立学校には日の丸が常時掲揚されているし、校内暴力や暴走
族などもめっきり少なくなった。

平成10年、こうした広島県の荒廃した公教育の正常化に我々(有志5
人)は広島県教育会議を立ち上げこの問題に取り組んだのでした。保護
者と協力し学校現場の情報を収集し問題のある学校に訪問し学校長に面
談し改善を申し入れたり、県教育委員会と問題の解決に何ができるかを
議論したりした。
また、年数回の大規模講演会や署名活動を行い県民へ啓蒙し、保護者や
市民の方々に広島の公教育の現実と、わが子が通っている学校で何が起
きているのを訴え続けたのでした。マスコミ(特に中国新聞社)には、
公正な報道の申し入れや、偏向報道への抗議活動などを地道に進め、県
民に本当の事を知らせる運動を数年間にわたり行ったのでした。この運
動によって保護者、市民の方々の意識も大きく変わり、広島の公教育の
危機的状況を認識するところとなった。広島県教育会議が広島の公教育
の正常化に果たした役割は大きなものだったと思っています。
今、広島の公教育は正常化され学力は全国平均を上回りの上位になった