【#1616】 生きる力

昨日25年来の友人であるが、7,8年ぶりに会った。彼からの突然の電話
でビックリもし、懐かしくもあり、そして回顧でもあった。彼は御年80
歳である。私に相談に来た内容が、新規事業を始めるので知恵を貸して
欲しいだった。なんとも元気である。人生に夢があり、その夢に向かっ
て80歳の今からまた挑戦するいう。80歳の今も事業意欲があり、生きる
力を持ち、なによりも夢があり、希望がある。恋もしているというでは
ないか・・。本人曰く「120歳まで頑張る」である。

彼は私の好きな「サミュエル・ウルマン」の「青春」を生きているよう
な人だ。

「青 春」   サミュエル・ウルマン

青春とは人生の一時期のことでなく心のあり方のことだ。
若くあるためには、創造力、強い意志、情熱、勇気が必要であり、
安・易(やすき)に就こうとする自らを戒め、冒険する心を忘れてはな
らない。

人間は年齢(とし)を重ねた時老いるのではない。理想をなくしたとき
老いるのである。

歳月は人間の皮膚に皺を刻むが情熱の消失は心の皺を作る。
悩みや疑い・不安や恐怖・失望、これらのものこそ若さを消滅させ、
雲ひとつない空のように心をだいなしにしてしまう元凶である。
六十歳になろうと十六歳であろうと、驚きへの憧憬・夜空に輝く星座の
煌めきにも似た事象や思想に対する敬愛・何かに挑戦する心・子どもの
ような探求心・生の喜びとそれに対する興味を変わらず胸に抱くことが
できる。

人間は信念とともに若くあり、疑念とともに老いる。
自信とともに若くあり、恐怖とともに老いる。
希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである。
自然や神仏や他者から、美しさや喜び・勇気や力などを感じ取ることが
できる限り、その人は若いのだ。
感性を失い、心が皮肉に被われ、嘆きや悲しみに閉ざされるとき、人間
は真に老いるのである。
そのような人は神様のあわれみを乞うしかない

私も「かくありたい」ものだと思う。

「かくありたい」とは、あの伊達政宗の幼少期の名前である梵天丸が、
「不動明王」についての話を受けたときに、自分も不動明王のようにな
りたいということを「かくありたい」といった言葉である。