【#2753】 至善を目指して

 3月も早いもので半ばを過ぎた。桜の花もあちこちで見られるようになった
が、例年のような花見とはいかないですね。「春は花・・・」と言いますが、
春は万物が芽を吹く[命」を感じる季節でもあります。
17日から岩手県の盛岡に行ってきましたが、盛岡はまだまだ寒く「春遠し」
という感じでした。日本列島の春は桜前線の北上が運びますね。

田口佳史著「横井小楠」を読み終えたが、この一文はとても印象に残りました。

  「自己の向上の為の学びを志す者が、進歩の向上の道筋が
   見えてこないのは、自己に対する「不足」を見出さない
   からです。それは「至善」と言う「目当て(目標)がないか
   らです。至善という目当てがあれば、一歩至善に向かって
   進み、また一歩また一歩と向上する。この一歩の向上には
   限りというものはありません。
   一歩進めば、そのレベルで己を見るから、また自己の不足
   が見えてくる。至善に到達したかに見える聖人になっても、
   不足が見えてくるものです。このように至善を極致と見て
   はなりません。限りなくどこまでも上を目指すのも、それ
   を至善というのです」。

自己の向上は、自分が向かう正しい目標があって、その目標が達成された時は次
の目標ができ、その至善の目標に向かうその事が向上です。だから自己の向上が
見られないのは「正しい目標」がないからだという。正しい目標=至善がないか
らだという。
至善な目標であればどんな小さな目標でも、その小さな目標を一歩一歩進め目標
を高めていけば、自己の向上が見えてくるというものだと、横井小楠は言ってい
る。
若い時は若い時のような至善な目標を描き、壮年は壮年の、年配は年配の至善な
目標を掲げて自己向上を目指したいものだ。

今日はこれで終了する。